かみたまのブログ

長崎サポが何か言うブログ

青い空は青いままで

こんにちは、かみたま(@ngsk_111)です。

 

8月9日11時2分

 

今年もこの日、この時刻がやってきました。

 

長崎で高校卒業まで過ごした身として、

忘れることは出来ない、

非常に重たい意味のある日、時刻です。

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73年前の今日、長崎の街は一発の原子爆弾によって地獄と化しました。

 

長崎市の上空、高さ600mで爆発した原子爆弾ファットマン。

地面の温度は一瞬にして6000℃になり、凄まじい熱線と衝撃波が襲いました。

 

被爆者の方の多くがこう言います

「太陽が降ってきたようだった」

 

実際、爆発した際の中心部の温度は100万℃と言われており

これは太陽の中心温度と同じです。

また、爆発直後の地表の温度6000℃は太陽の表面温度と同じです。

 

原子爆弾がいかに恐ろしいものなのか、非常に衝撃的でした。。

 

一瞬にして地上のもの全てが吹き飛ばされ、街は瓦礫の山となり、

また当時の長崎市の人口の3分の1にあたる7万4千人が犠牲になりました。

 

原子爆弾の恐ろしさは単純にその威力だけではありません。

恐ろしいのはその被害の凄惨さです。

 

原爆資料館に足を運んでもらえば、

 

・11時2分を指して止まった時計

 

・溶けた瓶(地上にいて瓶が溶けるんですよ、、、)

 

・背中が真っ赤に焼けただれた少年の写真

 

・男性なのか女性なのか、若者なのか老人なのかもわからない

 ただの炭と化した遺体の写真など

 

この他にも様々なあまりにも惨たらしい資料の数々を目にすることが出来ます。

 

僕の出た高校は爆心地から2キロのところにあります。

この場所は原爆投下前にも旧制の中学校があり、

多くの学生、教師が犠牲となりました。

校内には被爆したクスノキがあります。

 

「もっと勉強したかった」「大人になりたかった」と

無念な気持ちで志半ばで亡くなってしまった当時の学生の分まで

勉強しなければと高校生ながらに思っていました。

 

爆心地となった浦上エリアは長崎市内でもキリスト教徒が多い土地です。

浦上天主堂は当時、東洋最大の教会と言われていました。

 

しかし

キリスト教の教会に祈られて出撃した米軍のパイロットは

同じキリスト教の教会を

信者もろとも吹き飛ばしてしまったのです。

何という、皮肉、悲劇、、、

 

今でも、浦上天主堂に行くと、被爆したマリア様の像を見ることができます。

 

長崎にいたときは、毎年被爆者の方の講話を聴く機会があり

小学校のときなどは、

その話のあまりの残酷さと生々しさに

泣き出してしまったり

気分が悪くなってしまう子もいました。

 

しかし、原爆投下から73年たった今

語り部の方の高齢化が進み、語り継ぐのが年々難しくなっています。

 

しっかりと

「僕らの世代からも発信して未来へと伝えていく」

これは被爆地に生まれた人間の義務だと思います。

 

人類史上に残る悲劇から73年。

世界は少しはマシな方に進んでいるのでしょうか。

 

長崎が「最後の被爆地」になることを祈って。

 

青い空は青いままで、未来へと。

 

ではまた。